だじょんの部屋

何でもいいから送って!

思い出

おれの半生を書くよ

出生

2003/12/22

 僕が生まれたのは12月22日の23時過ぎでした。軽い雪が空から不規則に降り、辺りの音を吸収していました。 病室から見える景色は限りなく白く、聞こえてくるのは時たまに廊下を通る人の声と静かになり続ける機械の音、ごくまれに天井から なる何かが軋む音だけでした。
 とかなんとか美しい風景を描写してみようとしましたが、大事なのは僕が生まれた日に雪が降っていたということです。 だから僕は「遥かな冬」と書いてハルトという名前を授かったのです。  生まれ育ちは名古屋だと自認していますが、当時母の実家が岐阜にあった関係で実際に生まれた場所は岐阜県です。 あまり知られたくないのでもちろん名古屋だと人には言っています。トランス出生地ですね。
 出生時の体重は3,628g、身長は50cmだったそうです。ちょいポチャですね。 とにかく顔が丸かったです。
 この時点で二歳の姉がいました。 僕の幼少期は、初孫として周りの大人から ちやほやされ続けた姉の従順な奴隷という役目を全うすることから始まりました。

幼少期

姉の言いなりと好奇心

 生まれてから少しの間、父親の仕事の都合で神奈川県に住んでいました。 生まれ育ちが名古屋など真っ赤なウソですね。 住んでいたのは小田急線の小さな駅、生田駅というところです。新宿に一本で行けるとは思えないほどのどかで よいところです。駅を出ると弁当屋があり、バス停があり、 二階が婦人服売り場になっているスーパーマーケットがあり、蕎麦屋と居酒屋があり、 個人の本屋があり、といった次第です。とはいっても、自分はその当時のことをよく覚えていません。 大人になり改めて訪れたときに感じたものです。なんにせよ温かい場所でした。
 住んでいたアパートの名前は、「生田フェニックス」。これ以上ないセンスのネーミングに惹かれざるを得ませんね。 一階がタクシー会社の駐車場となっており、毎月大家さんに手渡しで家賃を渡すような 昔ながらのアパートだったらしいです。住民に大した予告もなく工事が始まり、 外側の白いメッシュシートが剥がれた時に外装がピンク色になっていたこともあったそう。 そんな愉快な場所で僕の人生はスタートしました。
 薄い記憶をたどると、断片的にそこでの生活が思い浮かびますね。姉と座布団を投げ合ったこと、 近くの児童館的なところに行ったこと、姉と殴り合ったこと、姉に殴られたこと、姉に追いかけられたこと、姉に捕まったこと。 姉にやられてばかりですね。
 その頃の姉は父方の祖父母にとっての初孫であり、溢れんばかりの愛情を注がれながら育ちました。 母方の祖父母も、不器用でツンデレなところはありましたが基本的には孫のことを溺愛してましたし、とにかく甘やかされていました。物心がついたときには、 周りの大人はすべて姉の言うことを聞いていたのです。そんな人生の有頂天の中生まれた反乱分子が僕でした。そりゃあ気に入らないでしょう。 唯一僕だけ姉の言うことを聞かないのですから。もちろんぎゃふんと言わせなければなりません。 そんなこんなで姉にやられてばかりの幼少期でした。 母親はそれなりに仲裁してくれましたが、一方的にぼこぼこになっているみたいな状況じゃなければ基本的には関知しなかったそうです。 そうして僕は姉の従順な奴隷になったのです。簡単にわからされました。
 そんなあるとき、母親が僕と姉を連れて公園に行った時のことです。母親は姉のお世話に手いっぱいで、まだ幼かった僕のことまで 面倒が見切れず、とりあえずおとなしくしてもらうために砂場に小さいくぼみを作り、そこに僕のお尻をはめ、周りに土手を作ることで 砂場への固定を試みました。その間に姉の面倒を見ていたのですが、小さい僕がそのままじっとしているはずがなく、母が少し目を離したすきに 僕は砂場を脱出しました。そして母が次に僕を見た時、僕は犬のうんちを食べていたそうです。育児というものは大変ですね。子供は 自身に何のメリットもないようなことを好奇心とカマチョの気持ちだけで簡単にやってのけるのです。

井口公園とf君

 僕が3歳くらいの頃に父親の仕事の関係で生田から名古屋に引っ越しました。そこからなんやかんやあって名古屋の天白区というところに 住むことになりました。天白区は典型的な地方都市の周りの住宅街といったところで、育児をするには比較的条件のいい街でした。 もちろん天白区で育児をしたことがないので、成長してからの想像ですが。
 白を基調とした綺麗なマンションの4階に住むことになりました。マンションは南北の2棟に分かれており、間には幾何学的なデザインの中庭があります。 足の低いソファーが集まったロビーや24時間ごみステーションなど設備の良い非常に過ごしやすいマンションです。  姉は確か年少から幼稚園に通っており、幼稚園の途中で神奈川から名古屋に来たところでした。僕はというと、年少は幼稚園に通わず、 りんご倶楽部という施設というか取り組みというか何というか、的なところに入りました。そしてそのあとに姉と同じ幼稚園に年中から入ったという次第です。
 母親の幼少期の子育てについて感謝していることに一つに、公園にたくさん連れて行ってくれたという点があります。その当時、ゲームが家庭に だんだんと普及しており、幼少期からゲームが家にあったという家庭も周りに少なくありませんでした。しかし、ゲームより外で遊んだほうがいい という母親の心情の元(実際にはゲームを買う余裕がなかったのですが)、母親は幼稚園に通っていない時間でほとんど毎日公園に通わせてくれました。 晴れの日はもちろん、雪の日も連れていってくれていたそうです。これは生田にいた頃からずっとでした。
 今になって考えれば、それは相当な努力だったことでしょう。ただでさえ育児で疲れているのにもかかわらず、ほとんど毎日エネルギーを消費する 子供を連れて公園に行くのはさぞかし大変なのは容易に想像できます。本当に感謝しています。そして、この尊敬すべき継続がもたらしたのは 運動に対する親近感だけでなく、大切な友人との出会いでした。
 ゲームより外で同年代の友達と遊んでほしいという想いはもちろん他の家庭にもあったらしいです。でも、幼稚園は地元が思っているよりばらばらで、 近所に既に友達がいるとも限りません。そのため、公園に連れて行ったとして、子供を一人ぼっちにさせてしまうのが少しばかり気がかりだったのでしょう。 そういった人たちがだんだん気づき始めたのです。あれ?あの人たち毎日公園おらん?と。そして明日も来る?というようなことを母に聞く人がちらほら 見られるようになりました。毎日狂ったように通いまくっていた僕たちの存在が公園に行く理由になったのです。すげえなあうちの母。
 そうして公園に通う僕と同年代の子供の数は段々と増えていきました。その一人がf君です。毎日公園に来る僕たちを頼りに公園に通うようになり、 よく遊ぶようになりました。彼とは偶然同じ幼稚園で、かつ同じマンションに住んでいました。 子供なんて一緒に遊べば誰とでも仲良くなれるのにこれだけ共通点があればそりゃあ仲良くなるでしょう。幼稚園でも基本的に一緒にいるようになりました。 それから小学生6年間と中学3年間一緒に登校し続け、同じ部活に入りました。喧嘩はあまりなく、部活が終わった後もf君の部屋の前の廊下で親が呼びに来るまで 毎日喋り倒したものです。基本的にはくだらない悪口や冗談をかわし、内輪ネタをこすりまくりました。懐かしい。 今は彼も東京におり、定期的にあっては愚痴を聞いてもらいながらゲームをし、僕が過ちを懺悔する時間を過ごしています。
 f君とのエピソードはたくさんありますが、とにもかくにも母親の気合の継続によって大切な友人を得たのです。感謝。そして、そんな彼と通っていた 幼稚園の話を少しだけしましょう。
 幼稚園にしては珍しく、遊ぶときに裸足が許されていたところが一番好きなところでした。お泊り保育では水族館に行き、先生のトーチを見て 肝試しをしました。エリザベスが怖いのなんの。子供のころから外で体を動かすことが好きで、放課的な時間にはスクーターの取りあいに参加していました。 はしゃぎすぎて怒られたり、足が速いのをいいことにリレーでどや顔したり、いもを掘ったり、プールに入ったり、その他いろいろ楽しかったです。 その当時の僕の憧れている人の一人にウサイン・ボルトがいました。足が速かったからです。そのため、幼稚園で体育の時に使う帽子に、ボルトから由来する 稲妻の形のフェルトを刺繍してもらったのを覚えています。僕のことを遠くから見てすぐわかるようにする目的もあったそうです。自分のことを思ってくれている のが伝わりますね。 年長さんはアジサイ組だった気がします。f君はアサガオ組だった気がします。そんなこんなでごく普通の幼稚園生活を最大限に楽しみました。
 少し人見知りではありましたが、基本的には声が大きく、恥ずかしがり屋なくせにとにかく目立ちたがり屋で、体を動かすことが得意で好きで、 食べ物の好みが少しだけ渋く、自己中心的な子供だったという自認です。今度親に聞いてみます。

好きだったものごと1

 幼少期に何が好きだったのかは自分ではもうほとんど覚えていません。
 絵本は「こんとあき」「泣いた赤鬼」「はじめてのおつかい」「だるまちゃんとてんぐちゃん」その他もろもろを読みました。
 他は基本体を動かすことが好きでした。逆に手先を使うような文化的なことは不得意で、全く魅力を感じていませんでした。 それでも、家にいるときに大好きだったのはぬいぐるみ遊びです。どこかで紹介したかもしれませんが、僕の人生を一番近くで見てきたのは家族とぬいぐるみのぶーちゃんです。 ぶーちゃんは元々は姉が生まれた時に親戚から姉にプレゼントされたものなのですが、姉はその豚のぬいぐるみにあまり興味を示さず、2年後に生まれてきた僕が代わりに興味 津々になりました。ぶーちゃんと会話をし、キャラを与え、本名を与え、どこにでも連れて行きました。これは小学校に進学してからも変わらず、ほとんど毎日一緒に寝ていました。 ぶーちゃんについてはどこかほかのところで書きますが、とにかくぶーちゃんとその仲間たちを含めてぬいぐるみを使って姉としゃべったりするのが好きでした。

少年期

神の化身と豚の変身

 幼稚園を無事に卒園しました。卒園式の歌はいまだに口ずさむほど好きです。歌の名前は一向にわからないけれど、 「お母さん。なあに。ありがとう。先生。なあに。ありがとう。あのね。なあに。これからもずっと元気で大きくなってね。」というとても愛らしい歌詞でした。 担任の先生は泣いていました。卒園に際して絵本を貰いました。「森のかくれんぼう」という題名の絵本で、内容が少し怖かったのを覚えています。
 そして住んでいたマンションの隣の小学校に進学しました。その小学校は比較的新しく、自分が7期生くらいでした。校舎は木を基調とした温かい雰囲気で、 椅子や机、ロッカーや廊下の物置、下駄箱など全て木で作られていました。教室と廊下を隔てるのは壁ではなく、 一面がスライド式の木のドアで、ほとんどの教室にバルコニーがありました。二階の教室のバルコニーからは、 夏になるとゴーヤで作られた緑のカーテンが垂らされ、そのカーテンと梅の木に両側を挟まれながら 毎日正門から土間までの道を歩きました。開放感にあふれ、校舎のどこからもほのかに木の香りがするような素敵な校舎でした。
 小学校の低学年に関してもまだ印象的なことしか覚えていないので、それをいくつか書いていきます。
 その当時の僕は、自分のことを神だと思っていました。少年のほほえましい勘違いなのですが、当時の僕は本気でした。信じて疑いませんでした。 その原因の一つに、幼稚園の頃から体を動かすことが得意で、少しだけモテてしまったというのがあるでしょう。小学校では足の速さが人の価値の全てでしたから。 150人ほどいた学年の1,2を争うくらい足が速かった僕は、変な人気を獲得してしまったのです。学級委員をやっていたのも関係あるのかもしれませんが。
 さて、変な自信を持ってしまった僕は、あろうことか「神ポーズ」なるものを発明し、何かあるたびにクラスの前で披露しました。 目立つことが何よりも好きだったのです。黒歴史ですね。
 当時手放さなかったのは自由帳です。少し前までは文化的なことにあまり興味がなかったのですが、放課にやることとして最適だった自由帳に まんまとはまってしまいました。特に絵を描くのが好きで、オリジナルのキャラで続きものの漫画を描いたり、少し写実的な絵とかに挑戦して みたり、かと思ったらちょっとだけ小説的なものを書こうとしてみたりしてました。当時僕が連載(笑)をしていたその漫画はちょっとだけ人気が出て( とはいっても当時のクラスメイトとかはもう覚えていないと思いますが)、読んでくれる人も何人かおりました。嬉しかったですね。 おそらく低学年で自由帳を16冊使いまして、それらは今もちゃんと実家に保管してあります。
 習い事は、僕御用達の近所の公園でサッカーを習っていました。そのチームはあまり強いわけではありませんでしたが、ほとんどが同じ小学校のメンバーだったので、 いつの間にか友達が増えていきました。他にもちょっとだけ水泳の無料体験に行ったりなんだりしてましたが、友達が多かったのもあってかサッカー以外には興味が 湧きませんでした。
 そうしてサッカーと漫画家と神の三足の草鞋で生活し、放課後には公園に行って友達とドロケーやサッカーをする毎日でした。
 そしてもう一つ重大な出来事があったのをここで記しておかなければなりません。ぬいぐるみのぶーちゃんにまつわる出来事です。
 先述の通り、この当時の僕はぶーちゃんなしの生活が考えられないほどぶーちゃんをこよなく愛していました。どこへ行くにも連れていくせいでぶーちゃんは見る見るうちに 弱っていき、ところどころほつれや破れが見られるようになってきました。そのたびに母、もしくは裁縫が得意であった祖母が手術をしてくれて、 中の綿の交換までお世話をしてくれていましたが、その治療も永遠のものではなく、ぶーちゃんにも限界がやってきました。 もともと薄ピンクだった体は灰色に変わり、スエードのようだった肌はふわふわ感を失い、カールがかかっていた尻尾はだらんと垂れ、全体として弾力を失ってしまいました。 そこで見かねた母が「ぶーちゃんの大改造をしよう」と僕に言いました。
 「ぶーちゃんを一旦おばあちゃんに預けて、大変身してもらおう」。つまり、もとのぶーちゃんを参考に全く新しいぶーちゃんを祖母が1から作るということでした。 テセウスのぶーちゃんですね。当時の僕にとってはそんなこと考えられませんでした。ここにいるぶーちゃんだけがこれまでずっと一緒に過ごしてきたぶーちゃんなのであり、どれだけ似ていても 別のぬいぐるみになってしまうのが本当に嫌でした。また、祖母は母ほどぶーちゃんを傍で見てきたわけではありません。そのため、これまでも手術の仕上がりが少しイメージと違って やり直してもらったことがあり、そんな祖母に手術を依頼するというのも不安要素の一つでした。そして、この正直な思いを遠慮がちに母に伝えました。 いくら当時の僕といっても、祖母と母のやさしさには気づいていたため、その告白も忍びないものではありましたが、相手の気持ちを気遣えるほどの余裕がありませんでした。 母は少し寂しそうな表情をしていました。ひどいことをしたと今でも時々思い出します。 それでも母は僕を優しく根気強く説得し、かくしてぶーちゃんは1か月あまり祖母のもとに滞在することになったのです。
 そして、新生ぶーちゃんをお迎えする日がやってきました。その日は確か祖母と僕の家族と一緒に犬山にあるリトルワールドに遊びに行った日だったと覚えています。 待ち合わせをして、祖母は新生ぶーちゃんを見せてくれました。その仕上がりは、もとのぶーちゃんとはまるっきり違うものになっていました。 薄ピンクだった体はオフホワイトに変わり、スエード調だった生地は頑丈なデニム生地になり、鼻の穴は黄色に変わりました。当時の僕はショックを受けました。 新しくなったとはいえ、ほとんど同じぶーちゃんが帰ってくるものだと思っていたからです。だからその場であまり喜べませんでした。好きだったぶーちゃんが変わってしまった、 その事実がその日1日僕の頭をぐるぐると回っていました。もうぶーちゃんとは遊べない、少なくともこれまでのようには好きでいられない、とまで思いました。 僕の思っていることに母と祖母も気づいていたことでしょう。いま改めて母と祖母の立場に立とうとすると胸が苦しくなります。 それから新生ぶーちゃんを家に連れて帰り、これまで通り遊ぼうとしましたが、やはりしばらくの間は前のぶーちゃんが忘れられないでいました。
 そしてその日から10年以上たった今、このブログを書いている僕はぶーちゃんが大好きです。今年ぶーちゃんLINEスタンプを作ったり、雑誌の「人生のessential」 コーナーでぶーちゃんを紹介するほどに愛してやみません。もし大改造の当時に戻れるのならば、昔の自分には心配するなと言いたいし、母と祖母には本当に ありがとうと言いたいです。こうして感謝を気づくまで長い時間をかけてしまいました。母はいまだに元気ですが、祖母は認知症が進行し、気づけば僕のことも すっかり忘れて施設で過ごしています。自己満足になるかもしれませんが、近々会いに行ってぶーちゃんのお礼を改めて言いたいです。 でも文面にも残しておきたいです。
 おばあちゃんありがとう!
 【追記】
 これは最近になって姉から聞いたことなのですが、ぶーちゃんのお披露目会をした後に、祖母がもとの前身のぶーちゃんの残滓といいますか名残といいますか 具体的には耳といいますか、あまり明示したくはありませんがそういった類のものを僕に見せようとしていたらしいです。それを必死に母が止めてくれて、その一部始終を 姉が見ていたらしいです。なんともお茶目なおばあちゃんですね。そういうところが昔からある人でした。もし当時の僕がその名残を目にしていたと思うとぞっとしますね。 だからと言っておばあちゃんに対してどうこう思ってほしいわけではありません。今となってはもちろん笑い話ですので、何か心中に残るものがあってもそっとしまってください。

好きだったものごと2

 このころの好きなものごとはある程度覚えています。漫画を描くことや体を動かすこと以外に、覚えている限り書いていきたいと思います。
 まずは何といってもぶーちゃん達です。相変わらずぬいぐるみで遊ぶのが好きで、姉も一緒になって寝る前に布団の中でぬいぐるみ遊びをよくしていました。 とにかく一緒に喋って寝なかったので、おしゃべり禁止令がよく出されていました。このころの姉のパートナーは基本的にらぶちゃんで、僕はぶーちゃん以外にもカピバラのかぴちゃん、 子豚のこぶちゃん、もっと小さい豚さんのばむちゃんとばみちゃんなどがいました。ばむちゃんとばみちゃんは小さかったので、ばれずに布団に持っていきやすく、 よくおしゃべり相手にしたものです。ペンの先が光るようなボールペンが家にあったので、それとばむちゃんを布団に持ち込むことで布団の中でも姉とぬいぐるみ遊びができ、 かつ親にもばれないという作戦を思いついた時は天才かと思いました。姉にいきなり裏切られてチクられてその作戦は失敗に終わりましたが。 ぬいぐるみに対する詳細な設定もこの時につけられ、今でも鮮明に覚えています。いつかそれについてもどこかで 説明できればと思います。
 僕がぬいぐるみに傾倒しすぎた影響か、他の友達もそれぞれパートナーを持つようになりました。そのおかげで、友達に家に行っても親戚の集まりに行っても いつでもぬいぐるみ同士で喋ることができました。楽しいことこの上ないですね。それが普通なのかどうかは今でもわかりません。
 その他には恐竜と車が好きでした。恐竜の図鑑を買ってもらい、それを穴が開くほど眺めていました。とにかく大きい恐竜が好きで、ブラキオサウルスとかの 少し有名な恐竜が最大の恐竜じゃないことを知っていることを鼻高々に思っていました。その当時の図鑑に載っていた最大は確かアルゼンチノサウルスだった 気がします。見開きの精巧なイラストを眺めながら大昔に生きた想像もできない壮大さに何とも言えない幸福感を感じていました。ロマンってやつですね。 恐竜のグッズを少しだけ集め、風邪をひいたときには図鑑の付録のDVDを何回も見ていました。
 車はその年代の男の子がハマるような一般的なハマり方をしました。父が車好きだったのでその影響もあったでしょう。特に好きだったのはわかりやすい スーパーカーで、ランボルギーニのムルシエラゴが一番好きでした。父が見ていた「岡崎五郎の車で行こう」も一緒に見てました。
 おそらくこのころからだったと思います。僕は一人遊びに憑りつかれました。一人でトミカをもち、そのトミカが走っている姿とシチュエーションを想像し、 かっこいい姿を想像して何時間も一人で遊んでいました。もちろん想像の対象はトミカに限らず、恐竜のおもちゃから恐竜同士の戦いを想像したり、お皿立てをドラゴンに 見立てたり、ペンを伝説の武器に見立てたり、駒を近未来的な乗り物に見立てたりして遊びました。 思えばこのころの一人遊びが僕の少ない創造性を育んでくれたのかなと感謝しています。この一人遊びで少しだけ面白いのが、基本的に世界線は一つだったという点です。 一つの世界線に明確に主人公集団がおり、いつもそれに敵対する組織がおり、その物語が続いていくのです。そしてさらに面白いのが、 エピソードの変更は数多あれど、基本的にこのころの空想世界を今でも暇なときに空想するという点です。無駄なところには継続力があるんですね。
 一人遊びの癖は人といても収まらず、時には友達の家でも授業中でも身の回りの物を何かに見立て一人の世界に入っていきました。一人遊びの対象になる モノの条件は、そのモノが対称であるということでした。線対称・点対称など対称性があればあるほどそれを想像の世界で動かしやすく、捗ったものです。 そのため、先に言ったぬいぐるみも全て左右対称で体が動かしやすい子達ばかりでした。それが一番の優先事項だったからです。
 最後に少しだけ、一般的なコンテンツの話をしたいと思います。ドラえもんの映画は毎年、ポケモンはほとんど毎年見ていました。一番好きなのは 前者は鉄人兵団、後者はデオキシスのやつです。仮面ライダーはディケイドが一番好きで、戦隊ものはあまりハマりませんでした。音楽は、RHYMESTAR、宇多田ヒカル、 嵐、いきものがかりなどその当時のきちんとしたJpopが車で流れていて、それに順当にはまりました。そのへんはちゃんと王道の道を通って育ちました。

人生最高に調子がいい。

 大仰なタイトルから始まりましたね。しかし、この過剰なタイトルにも劣らないほど僕の小学校高学年の生活は華やかなものでした。いや、こういうと客観的な事実のようで 少し語弊があります。正確には、僕が人生において最も華やかだと考えている時期です。もっと正確には、このころが人生のピークだったのかもしれないということです。 だんだん悲しくなってきましたね。今まさにジェットコースターのレールが音を立てて僕を頂上まで運んでいるのです。そうしてたどり着いた頂上の景色は絶景でした。 しかしその絶景をきちんと楽しめるだけの自我と語彙と感性と謙虚さが当時の僕には到底足りませんでした。しかし、見ていた景色は興味深いものだったのだろうと、その感覚 だけは今でもなんとなく覚えています。でも待って。それってその当時言語化できなかったから言語化できるようになっていくその過程でどんどん脚色されて美化されただけじゃない? そうだったらいいなあ。僕の過去が思ったより大したことのないものだったら今に希望を抱けるのになあ。何の話をしているのだろう。話を戻しましょう。
 とにもかくにも、小学校高学年という年代に縛られて憧れて引っ張り続けてこれまで生きてきたという事実に間違いはありません。そんな時期の話を書かせてください。
 この時期の生活の中心はやはり部活です。名古屋は東京などに比べて小学校の部活をしっかりやる自治体だったので、四年生になって部活に入れるようになってからは 放課後は部活動に精を出す生徒が多かったです。
 僕はサッカー部に入りました。一通り道具をそろえ(ボールだけ普通は4号球のところを何故か5号球を買ったが)、ウキウキな気持ちで入部しました。 そしてこれから始まるこの部活生活を強く印象的にしてくれたのは間違いなく顧問の先生のおかげです。僕らの代を受け持ってくれたT先生は30代くらいの男性の先生で、 日焼けした肌とこわもての奥に潜む優しい笑顔を持っていました。数年前に僕らの小学校に転勤し、そこからサッカー部の顧問を務めていたそうです。 T先生は熱血でもありながらユーモアがあり、基本的には優しいけれど芯があって締めるところは締めるというまさに理想の先生でした。 僕がサッカー部に入った当時、先生は姉のクラスの担任でした。その縁もあって、さらにどこからそんな噂を聞いたのか僕のサッカーの腕(この場合は足?)を買ってくれていて、 入部前から熱心に勧誘してくれました。そんな事せずとも入るのに、と思っていましたが、優越感もあって嬉しかったものです。
 そんなこんなで始まったサッカー部ですが、幸運なことにサッカーが少しできた僕は、入部したてのころから公式戦に出させてもらい、背番号は全ての大会で10番を貰う ことができました。T先生の期待に応えたかったし、何よりもフォワードとして点を取ることが楽しかったので基本的に毎日楽しく真剣にサッカーに取り組んでいました。 つまりドラマチックな展開が僕個人の部活生活にあまり怒らなかったので、部活のことは一旦終わりましょう。
 さて、4年生に入り部活に入ったはいいものの休日にやることがなかった僕は、これまた近所の別の公園のフットサルチームに入ることに決めました。(ちなみに先ほど書いた サッカーチームは入部と同時に引退していました。三日月FCという激強チームにに12-0くらいで負けたことと、練習中にクラブ外の友達とグラウンドの端っこで野球をしていたら しこたま怒られたことが印象に残っています。)ありがたいことに、そのフットサルチーム以外に声をかけてもらったチームがいくつかありました。その一つは部活の別の顧問 の先生から直々に誘われたものでした。でも、そこで僕のよろしくない癖がでてしましました。余裕を持った決断をしてしまうという癖です。そのチームは大層強く、 正直に言って当時の僕でもスタメンに入れるとは思えませんでした。もちろん先生はお前なら取れるとおっしゃってくれましたが。そんな厳しい環境でスタメン争いをするより 試合に出ていたかった僕は、そのチームよりは新しく優しい、何ならサッカーでもないチームに入りました。この性格は今でも治っていません。
 こうして平日の放課後は部活に参加し、部活がない日には誰と約束するでもなく公園にいきサッカーをしたりドロケーをしたりして過ごし、休日にはクラブチームに参加 するというスタイルで生活していました。そんな僕の小学校高学年生活の中で印象に残っていることを書き連ねていきたいと思います。

サッカー部

 前述の経緯でサッカー部に入部しました。GUで派手めな練習着を揃え(おねだりを繰り返すことで何着かはプーマやアディダスの練習着を手に入れることができましたが)、 ボールとスパイクを新調し、4年生進級時に意気揚々と部活動の世界にお邪魔しました。
 その当時、僕のいた植田東小学校は大会でもそこそこの結果を残していました。その原因は、単純に人数が多かったこともありますが、何よりも顧問のT先生の存在が大きかったです。 僕が今まで出会った教師と呼ばれる人の中で最も尊敬する人です。小学校の部活動仲間と部活を振り返るときには揃って同じようなことを口にすることからも 先生がどれだけ愛されていたか簡単に推し量ることができます。そんな敬愛するT先生の下での毎日の部活動について少し書きたいと思います。
 活動は大会以外は平日に行われ、週に3,4回でした。授業が終わると、冬でも関係なく外の土間で着替えさせられ、適当な時間からトレーニングが始まります。 練習自体は、カゴメやしっぽとりなど普通の楽しい練習でした。僕は1対1が好きでした。大会は、大きいものが年に2つあります。一つが新人戦、もう一つが中日大会です。 新人戦は夏に行われ、6年生は出ることはできません。冬に行われる中日大会が最も大きな大会であり、当時は名古屋の小学校250校ほどが参加していました。 どちらの大会もベスト4まで勝ち上がると、芝のグラウンドで準決勝・決勝を行うことができます。T先生の最大の目標はベスト4まで勝ち上がり、芝に行くことでした。 そのため、自然と僕たちの目標もそこに設定されました。以下は、僕が4年生の時の中日大会から順に書こうと思います。
 入部した年の冬、中日大会のユニフォームメンバーが発表された日のことを今でもよく覚えています。 僕はそれまでそこそこ試合に出してもらっていたので、ユニフォームメンバーには選ばれるだろうと思っていましたが、問題は背番号です。 サッカーも他のスポーツと同様に背番号に大体の意味があります。1番は正ゴールキーパー、10番は点取り屋、11番はテクニシャン、などなど大まかにそんな感じです。 僕は運のいいことに最初の大会から10番をもらうことができました。とっても嬉しかったです。 そしてポジションはフォワードとして基本的にどの試合でもスタメンとして出ることができました。
 まじでサッカーが楽しかったです。ツートップの片方はテクニシャン系の先輩で、 僕はあほみたいに走るのが役目だったのでその先輩が起点となって僕は裏に走って常にボールをもらいにいくというおいしいとこどりでした。 電車で切符を靴下の中にいれながら会場にいそいそと移動し、一日二試合を毎週繰り返しました。その時の結果は全体でベスト16。なかなか筋が良かったです。
 そしてその次の年の中日大会。僕はポジションも役割も背番号もサッカーの楽しさも変わらずに参加できました。 一個上の先輩が最上級生だったこの時のチームはどちらかといえばパワーで壊す系のチームでした。たのしかった。この時の結果はベスト8。 芝まであと一歩というところで哀しくも散ってしまいました。マジで悔しかったのを覚えています。
 そしてそして自分たちの代になっての中日大会。僕はポジションも役割も(ウィトゲンシュタインの剃刀)。最初らへんは調子よく勝ち抜きました。 3回戦くらいで当たった対戦相手は、僕らとの試合直前に座りながらおにぎりを食べており、これを見た顧問のT先生は大激怒。 「お前ら相手に舐められとるで。ぼこぼこにしたれ」と言われてちゃんと発破がかかった僕たちは5-0で圧勝。後半の途中でメンバー11人全員を交代させる奇策まで披露しました。
 その調子で勝ち進み、芝をかけた試合。相手はもちろん強豪校。ディフェンスが硬く、かつ先制点を決められ焦りに焦りました。 がしかし、そこでゴールを決められなければ10番を背負っている意味はありません。試合終了間際に何とかゴールを決めることができ、同点に並びます。 そのまま試合は終了し、PK戦を制した僕たちは晴れて芝への権利を手にしました。T先生は大喜び。僕らも大喜び。保護者も大喜び。本当に嬉しい瞬間でした。
 芝での準決勝は普段の環境と全く違うということもありあっけなく負けてしまいましたが、堂々の3位で最後の大会を終えることができました。 いい仲間と先生に恵まれ、最高の部活動でした。

鋭意執筆中、、