オレの本棚
自分の読んだ本の中で、人に薦めたい本当に面白い本だけを紹介できればと思ってます。
そのため、基本的には推薦・紹介という形をとりますが、ごく個人的な感想も書きます。もちろん若干ネタバレを含みますが。
読む本の傾向としては、基本的に純文学が好きです。今でもこの文言を言うのには勇気が必要ですが、言わせてください。
ジャンルはほとんど小説で、村上春樹から入り、遠野遥や村上龍、三島由紀夫や町田康、池澤夏樹あたりを徘徊しています。
漫画も読みます。僕の漫画の始まりは、祖父母の家の離れの書庫です。そのため、手塚治虫や藤子不二雄やらを読んで過ごした幼少期が
今の感性にだいぶ影響を与えていると思っています。
とてもとてもおすすめ
本気で好きな本たちです。読んだことのない人には読んでもらいたいし、感想を語りたいと思えるやつです。
後輩のラグビー指導に熱を入れ、就職活動を間近に控えた大学4年生の私は、友人のお笑いライブで、新入生の灯と出会う。
やがて私は、幼馴染で成績優秀な恋人の麻衣子よりも無邪気な新入生の灯に惹かれてゆく。肉体を鍛え上げた男の破局を平易で冷徹な文体で
書き上げた作品。
純文学は神聖じゃない
ーー私はもともと、セックスをするのが好きだ。なぜなら、セックスをすると気持ちがいいからだ。セックスほど気持ちのいいことは知らない。
僕が小説の沼に本格的にハマるきっかけとなった作品です。とりあえず名作と呼ばれるものを読んでみたいと思い、芥川賞を縦に読んでいた時に出会いました。
慶応大学出身の遠野遥さんの第163回芥川賞受賞作です。
この作品はタイトルの通りマッチョが破局する物語です。大筋に関して言えばそれ以上でもそれ以下でもありません。圧倒的な伏線回収もなければ
どんでん返しもありませんし、非現実的な幻想世界が広がるわけでもありません。それでも僕はこの作品を時に熱を持ちながら、時に嘲笑しながらも読み進めざるをえませんでした。
そうして読み終わったとき、気づけば僕はこれまでの人生の途中に幾度となく出会った「本を読む」という難題に取り組む自身と活力が湧いていました。
この本が小説の扉を開いてくれた理由として、文学が文学でなければならない理由を少し理解したことが大きいです。物語のあらすじを伝える媒体は何であっても
構いませんが、その細部は媒体の影響を大きく受けます。そしてこの本の魅力は、何といっても文体です。至極当たり前のことですが、この作品はこの文体で読んでこそ
完成する作品です。そう強く思えるほど魅力的な文体でした。
この作品は基本的に主人公の思考を通して書かれていますが、その語り口は冷徹かつ客観的で、思考自体の主観性との解離があります。目の前の物事を冷静に
捉え、克明に描写しようと心掛けられているが、そこには全くもって拭われていない主人公の思考のバイアスを見ることができ、さらに思考の表出の取捨選択が為されていません。
そのため、あまりにもバカバカしく時に支離滅裂な主人公の思考にずっと付き合わされることになります。描写の具体性や明確性の緩急も激しく、思考の散乱まで掴めます。
そして全体を通して、あくまで馬鹿真面目に正直な思考が描写されています。
つまりこの作品は、非論理的で些末でひねくれた思考を駄々洩れにするマッチョを眺める物語なのです。そこから何か示唆を受け取ってもいいし、受け取らなくてもいいでしょう。
そのバカバカしさを笑ってもいいし、思考の一部を取り入れてもいいでしょう。小説は神聖な要素だけで構成されているわけではなく、著者の表現を時に傲慢に嘲笑しながら読むのも悪くない
ということを気づかせてくれたという点で、この作品は小説を自分の周りに引き寄せてくれます。純文学と呼ばれるものの第一歩としてちょうどいい作品ではないかと思います。
最後に、もし興味があればこの作者さんの芥川賞受賞式のインタビューも面白いので是非見てみてください。
1972年夏、キクとハシはコインロッカーで生まれた。二人は幼少期を孤児院で過ごし、九州の孤島に里親を見つける。
しかし、本当の母親を探すためにハシは忽然と姿を消す。ハシを追うために東京へとやって来たキクは、鰐のガリバーと暮らすアネモネに出会う。
ダチュラの力で街を破壊し、絶対の解放を希求するキクと、過去の音を探し求め、平穏を希求するハシを追う破壊的青春小説。
脳内に爆音で響き続ける圧倒的な"物語"
ーーもう忘れることはない、僕は母親から受けた心臓の鼓動の信号を忘れない、死ぬな、死んではいけない、信号はそう教える、
生きろ、そう叫びながら心臓はビートを刻んでいる。
緻密で精巧な世界観を圧倒的な表現で書き出した、文学作品の一つの完成形です。文学作品でしか、もっと言えば村上龍でしか為しえない領域に到達しています。最初から最後まで
物語の持つ熱量に圧倒されます。まーじで面白いです。
村上龍の作品の中で最初に読んだのは「限りなく透明に近いブルー」でした。そしてその退廃的な世界観の描写のうまさと他の小説家と比べても突き抜けている表現力に
驚愕したのを覚えています。そこから彼の著作を何冊か読んでいるうちにこの作品にたどり着きました。村上龍の村上龍たる小説です。
物語としての面白さや登場人物の書き込みもさることながら、この作品の最大の魅力はやはり彼の書き出す退廃的で暴力的かつ清々しく爽やかな世界です。
キクとハシが幼少期を過ごした孤島での風景など爽やかに書き出す情景は類を見ないほど美しく、その風景が頭の中で明確な輪郭をもって動き出し、五感をもって実感しました。
かと思えば、退廃的な世界の描写では発熱時の頭痛に似た感覚を覚え、脳内で心臓の音と不快な機械音が遠近感をもって往来するのを感じました。
色や物性を含めた視覚情報はもちろん嗅覚や触覚までも支配されるその臨場感は、正直そこらの小説とは比べ物になりません。
物語を通して強調されているのは二つの物事の対比です。ジブリ映画のような安心と郷愁を含んだ孤島の風景と、思春期のような暴力性を含んだ東京の風景。
容姿端麗で希望的観測を採用する若いアネモネと、ある種醜く達観的観測を採用する二ヴァ。精神的なハシと肉体的なキク。そういった対比に振り回され、気づけば物語の中に生き、
その熱量をまっすぐに受け止め、体調不良を錯覚するくらいのめりこんでしまいました。
作中に通底している題材の一つは"人間"だと考えます。自滅的な破壊行為の中にも美を見出せるのは、間違いなく人間が人間の行動を人間の原理で行っているからでしょう。
そんな破滅的な美しさを感じてみて下さい。そしてそれらを支えるために連なる言葉達は、いつでもわたしたちの肉体を揺さぶり、物質に生きるという原点に連れ戻してくれるでしょう。
ちなみに村上龍のエッセイはどれも面白いです。もっとも有名な「すべての男は消耗品である」のシリーズは、賛否両論あれど個人的には痛快な名エッセイだと思います。
ここまで傲慢不遜な高飛車エッセイ今日日なかなか拝めたもんじゃありません。
明治中期にある村に生まれた熊太郎が大量殺人に手を染めるまでを描いた物語。思弁家だが不器用で天邪鬼な熊太郎は自分の望む生き方が出来ずもがく。
仲間からの疎外感、放蕩息子ゆえの生活力のなさ、自身の怠惰。そういったモノに焦り、押しつぶされ、それでも人を信じようとするも手ひどい裏切りにあう。
そうして、熊太郎は我慢の限界を迎える。河内音頭のスタンダードナンバーにうたいつがれる、
実際に起きた大量殺人事件「河内十人斬り」をモチーフに、人の思考をとことん追いかけた名作。
人間性は弱さにこそある
ーー熊太郎はなぜこうも、耕らないのだろう。と思いながら鍬をふるったが、そもそもそこが熊太郎のだめなところであって、
つまり耕すというのは他動詞である。熊太郎が田を耕す。これが正しい表現である。ところが熊太郎は先ほどから、耕った、耕った、
と自動詞的な表現をしている。もちろんこれは無意識裡にやっていることでだからこそ熊太郎本人も、なんか妙だな、
と思ってこれにひっかかっている振りをして目の前の労働の辛さから目を背けようとしたのだけれども、これは無意識裡に、
田というものは本来はひとりでに、耕る、ものであって、我々はそのお手伝いをするだけだ、といった甘えたことを考えているからである。
この、耕った、という言葉は労働に対する熊太郎のこれまでの生涯が形づくった思想の全力の抵抗であったのである。
さて、引用が長くなってしまいましたが、この熊太郎の思弁の道筋を少しばかり体験してほしかったからです。この作品は、僕が
所属しているファッションサークルのメンバーから薦められたものです。舞台は明治時代。幼少期には友人に慕われ、順風満帆な生活を送っていた
熊太郎が、大小様々な人生の転換点において思弁を巡らせ、彼なりに道を選んだ結果、大量殺人を犯してしまうまでの道のりを徹底的に書き連ねた
大作です。
紹介するにも忍びないほどの超絶名作ですが、僕がこの作品の魅力を何か一つ挙げるとするならば、町田康が微塵も妥協を許さずに掘り進めた「人間」を
垣間見ることができるという点でしょう。僕が人間性を考えたとき、人間のどの性質を思い浮かべるかはこの作品にすべて書いてあります。熊太郎こそまぎれもない「人間」
だと、そう考えます。
物語を通して熊太郎は弱く、怠惰で、不器用で、放蕩息子で、お調子者で、時に人を見下し、時に怖いほど無防備に人を信じ、思考と語彙に有意な解離があり、だからこそ表出している自分だけで
判断される世の中に不満を持っており、内面に眠る複雑怪奇な自分の思考に優越性を見出し、しかしそれが事実ならば同時に人に真実を伝えたことがないというのもまた事実であることに
悩まされ、また戻って自身の語彙のなさを恨みます。したがって結果的に行動は支離滅裂で、さらにその行動にも非合理的だが説得力のある理由を心中で連ねます。こうした熊太郎の現実との向き合い方を自己憐憫だとして
論破するのは確かに易しく正しいかもしれませんが、大抵の人間はそうはしないでしょう。なぜなら大抵の人間の中にも熊太郎はいるはずだからです。
そしてそんな熊太郎に現実は容赦しません。熊太郎と比べれば人間よりヤモリに近いような輩が残酷に裏切り、非情に蹴落とします。そしてそのたびに熊太郎の思考は
屈曲を繰り返し、、。
一人の愛すべき人間の思考の一番近くに寄り添い、脳内を旅するような錯覚に陥るこの作品は間違いなく小説の最高到達点です。やっぱり町田康の徹底的な姿勢と文章
の巧みさは半端じゃないですね。
最後に、町田康の「記憶の盆をどり」という短編集もお勧めします。この作品とは毛色ががらっと変わりますが、彼の文章の巧みさを肌身で感じることが
できる本です。分厚くもないし平易な文章で書かれているので相当読みやすいと思います。
高い壁に囲まれ、外界との接触がまるでない街で、そこに住む一角獣たちの頭骨から夢を読んで暮らす〈僕〉の物語、〔世界の終り〕。
老科学者により意識の核に或る思考回路を組み込まれた〈私〉が、その回路に隠された秘密を巡って活躍する〔ハードボイルド・ワンダーランド〕。
静寂な幻想世界と波瀾万丈の冒険活劇の二つの物語が同時進行してまじりあう物語。
至高で幸福な読書体験
ーーボブ・ディランは『風に吹かれて』を唄っていた。
私はその唄を聴きながら、かたつむりや爪切りやスズキのバタークリーム煮やシェーヴィング・クリームのことを考えてみた。
世界はあらゆる形の啓示に充ちているのだ。
村上春樹にはまっていた時に友人からおすすめされた作品です。個人的村上春樹ランキング1位です。2位は「国境の南、太陽の西」、3位は「羊をめぐる冒険」です。
ちなみに2位以下のランキングは今の気分なのですぐに変わります。
「パン屋再襲撃」かもしれないし、「1Q84」かもしれないし、「一人称単数」かもしれないし、「ダンス・ダンス・ダンス」かもしれません。
この作品はあらすじにもある通り、二つの物語が同時進行する形式で書かれています。まず魅力の一つとして紹介したいのは何といっても幻想的な世界の描写です。
この作品以前の村上作品には、現実と非現実の絶妙な交錯こそあれど、ここまで完全なファンタジーともいえる世界はないと思っています。どこか不気味でどこか現実を
思わせる作風だったのが、この作品の冒頭の〔世界の終り〕の描写の美しさたるや。街全体を壁で閉じ、現実を排除した悠久の世界。
未体験なのに記憶がよみがえるような練られた描写の順序と表現。ただただ驚かせられます。
対して〔ハード・ボイルド・ワンダーランド〕では、物質的な空間と速さをもった緊張感のある世界が展開されます。
この二つの対照的な世界の往来には少しばかり体力が必要ですが、その関係性の妙は筆舌に尽くしがたいものがあります。
前者と後者は精神と肉体であり、静謐と激動であり、終古と刹那であり、閉鎖と開放なのです。
二つの世界は物語が進むにつれて減衰振動のように互いに近づいていきます。その距離感と表現の無駄のなさも魅力の一つです。無駄な説明や関係性の明示
が目立たず、あくまで独立した二つの世界として物語は進んでいきますが、我々読者が勝手に共通点なりなんなりを見出して勝手に推理していくのです。
そして一番心地のいいタイミングで答え合わせがやってきます。これは他の村上作品でも見られますが、この作品でより一層洗練されたと感じます。
ただ、この作品は比較的"村上春樹"していないです。それは特に文のリズムや文体において顕著であり、音楽をはじめとする具体名を多用した表現も控え目な印象があります。
この作品で書き出されているものは、平易でやや冷徹な彼の特異の表現というより、幅と奥行きを持った壮大で繊細な世界そのものです。
したがってもし"村上春樹"している作品を読みたいのなら、それこそ「ノルウェイの森」とかから入るのがいいでしょう。しかし、それでもこの作品を一番好きな
理由はストーリーと描写による師玉の読書体験ができたという点にあります。読後の多幸感はきっと何にも置き換えられないものになるでしょう。
村上春樹はこの作品(1985)から約40年後に、この作品と世界観を共有する「街とその不確かな壁」(2022)という長編小説を発表しました。
これら二つの作品は、さらに以前の中編小説「街と、その不確かな壁」(1980) という本人曰く"未完成な作品"にしかるべき決着をつけるための二通りの対応だそうです。
時間を隔てた二つの作品を読み比べることでメタ的に彼の作品を考察するのもまた面白いものです。
以下は「街とその不確かな壁」のあとがきから。
ーーホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、
手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ、と言ってしまっていいかもしれない。
要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが。
とてもおすすめ
何度でも読み返したい大好きな本たちです。
あってはならない感情なんて、この世にない。それはつまり、いてはいけない人間なんて、この世にいないということだ。
息子が不登校になった検事・啓喜。
初めての恋に気づいた女子大生・八重子。
ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。
ある人物の事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり合う。
しかしその繋がりは、"多様性を尊重する時代"にとって、ひどく不都合なものだった―。
「理解する」という言葉の浅ましさ
ーー幸せの形は人それぞれ。多様性の時代。自分に正直に生きよう。そう言えるのは、本当の自分を明かしたところで、
排除されない人たちだけだ。
ーー「何で、自分はあくまで理解する側だと思ってるんだよ。あんたには想像できないような人間がこの世にはたくさんいるんだよ」
この作品の主な題材は多様性です。どの作品でも何かしらの問いを投げかけがちな朝井リョウですが、
この作品の彼は、他の作品と比べても怖いくらいその題材を追いかけ、丸裸にし、説得力を持たせ私たちに届けていると感じました。
引用からわかるように、多様性という言葉・認識の脆さを複数の登場人物それぞれの立場から丁寧に描写しています。
多数派だと自認する人は少数派を「理解しよう」と努めるし、理解できる範囲だけを多様性と括り体裁を整えるが、
自分が理解できない性質を持つ人は多様性では「擁護できない」と考える。それは多数派側の傲慢なのではないか。
読み進めていくと上記のようなことを思い、心中で深く同意し、気持ちよくなるでしょう。でも、それだけの作品なら有象無象にすぎません。朝井リョウは
そこからもう一段階こちら側に干渉してくるから面白いのです。ノリノリな読者を攻撃してくるから面白いのです。そこからは是非読んでみてください。
題材に対する取り組み、物語の設定や流れ、丁寧な誘導と描写、言葉選びの妙、終盤の捲し立て、
それら全てを含めて完成度の非常に高い小説だと思います。
最後に、朝井リョウのエッセイは本当に心から面白いです。是非読んでみてください。
不審死が頻発する郊外のマンモス団地。警察が捜査に乗り出すが、子供たちが無邪気に遊ぶ団地内は一見平和に見える。
そんな中、捜査員の目に怪しく映るのは、昼間からブラつくアルコール依存症の男、知的障害と思しき大男、
受験ノイローゼ気味に見える浪人生、流産して以来おかしくなったと噂される主婦、ベンチで日なたぼっこする認知症と思しき老人…。
またひとり、捜査中の部長刑事が不審死を遂げた後日、とある少女が家族とともに団地に越してくる。
漫画史に残り続ける衝撃
ーーどさッ
1983年に刊行。日本の漫画史を語る上で外せない記念碑的傑作。
それまでの既存の漫画の表現を一段階アップデートさせた立役者的作品。
手塚治虫以来の日本漫画・アニメ界をその存在以前以後で二分する大友克洋の「AKIRA」に並ぶ代表作、、。らしいです。
僕がこの本を祖父母の家の離れの本棚にこの本があるのを見つけて読んだのは小学生の時でした。
その当時は上述のようなこの本の漫画界における立ち位置はおろか、作者の大友克洋のことも知らないただの小僧だったのですが、初読の衝撃は今でも鮮明に覚えています。
漫画全体を通して漂う夢見心地な浮遊感と、その中に確かに存在する現実。漫画の枠を飛び出すような圧倒的写実が描き出す漫画的表現。
SF作品ではありながらも、日常の隣に密かに息をするような不気味さ。単純なコマ割りと見開きでの大胆な構図。
そして、圧倒的書き込み。読後には、当時の年齢では踏み入ることの許されていない領域に密かに立ち入ってしまったような罪悪感を感じました。
きっと、今はじめてこの漫画を読んだとしたら、当時ほどの感動を味わうことはできないでしょう。それはもちろん対象年齢の話をしているのではなく、
大友克洋が初めて漫画に持ち込んだ様々な表現が今では当然のように浸透し、多くの漫画家によって引用されているため、目新しいものとして感じられなくなっているだろうからです。
それでもやはり、それほどまでにのちの漫画界に革新的漫画表現の始祖という情報を先行させて再読しても、新しい発見と感動があるのは間違いないでしょう。
彼の作品は他にいくつか読んだことがありますが、個人的には童夢が圧倒的に好きです。一巻で終わるので、昔の漫画と敬遠せず是非気軽に読んでみてほしいです。
教養なき下ネタは去れ。
令和に棹差す珠玉の金言集、完成。
アリストテレス、ガンディー、フロイト、正岡子規、医学者、性科学者……
先人たちの飽くなき探究と実験により得られた性科学的知見の数々。
著者ならではの考察と多角的な視点から生まれた、下ネタの〈総合知〉と称すべき賢者の書。
ナポレオンのモスクワ入城
ーー恐らく、アリストテレスは「こいつ全然気持ちよくなってないな~」と思うことがしばしばあったのだろう。
多分、アリストテレスはセックスがヘタだったんじゃないだろうか。
面白い下ネタ雑学が詰まっている本です。読むとグングン頭がよくなります。
それ以外に特にいうことはありません。とにかく読んでみてください。
何物にも容易に代えられる無駄な時間を過ごせるでしょう。ただ、真に面白いことだけは保証します。
永遠の愛をつかみたいと男は願った―。
東京の繁華街で次々と猟奇的殺人を重ねるサイコ・キラーが出現した。
犯人の名前は、蒲生稔!
くり返される凌辱の果ての惨殺。
冒頭から身も凍るラストシーンまで恐るべき殺人者の行動と魂の軌跡をたどり、
とらえようのない時代の悪夢と闇を鮮烈無比に抉る衝撃のホラー。
沼に足を取られ、背後から殴られるような読書
ーー蒲生稔は、逮捕の際まったく抵抗しなかった。
普段ミステリーと分類されるものをあまり読まないのですが、あまりにも有名なものくらいさすがに読んでおかねば、
くらいのテンションで事前情報も全くなしに読み始めました。そして、評価されているのには理由があることを知りました。
あまりにも有名なので事前情報を耳にしてしまっている人も多いでしょうが、
まだ何も知らないという人がもしいればそのまま五感を遮断して本屋に向かってください。
目をつむりながらレジカウンターに、「『殺戮にいたる病』を下さい」と言い、直帰するや否や読んでください。
本作の頭痛を引き起こすような湿度の高い残忍な描写はピカイチです。まじで面白いです。
それ以外のことをここでダラダラと綴る気はありません。
大阪の下町で生まれ小説家を目指し上京した夏子。
38歳の頃、自分の子どもに会いたいと思い始める。
子どもを産むこと、持つことへの周囲の様々な声。
そんな中、精子提供で生まれ、本当の父を探す逢沢と出会い心を寄せていく。
生命の意味をめぐる真摯な問いを切ない詩情と泣き笑いの筆致で描いた至高の物語。
人はなぜ子を産むのか
一世一代の博打のつもりか
ーーわたしはべつに自分がとりわけ不幸だなんて思っていないし、可哀想だとも思っていないよ。
わたしの身に起こったことなんて、生まれてきたことにくらべたら、本当になんでもないことだから。
小説家になった主人公の夏子は、創作活動が思うように進まないまま、子供を産みたいという気持ちが頭の片隅から消えません。
だが性行為に拒否感がある夏子にパートナーはいませんし、作る気もありません。
そこで、「AID(人工授精)」に興味を持ち、AIDで生まれた逢沢に関心を寄せますが、その彼女の百合子は反出生主義を唱えていました。
親はなぜ親になろうと思うのでしょうか。本作は、そんなテーマを丁寧に優しく、時に残酷に掘り下げています。
僕はこれで初めて生まれることの取り返しのつかなさについて考えるようになりました。特に百合子の考え方はこれからの将来を考えるときに
必ず頭をよぎるであろうものばかりでした。
子供のことを考えた出産など今まで存在せず、全て親のギャンブルである。では、それは誰のためのギャンブルなのか。
そのギャンブルで賭けているのは人の人生だということに気づいているのか。自分は人生に絶望しているのになぜ子供に希望を託すのか。
美しくも背後を冷たく覆うように紡がれた言葉達は今でも自分の中に沈殿しています。
是非意見を語り合いたい作品です。
ちなみにこの感想のタイトルはVaundyの『pain』の歌詞から引用したものです。
「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」。
吃音と醜い外貌に悩む学僧・溝口にとって、金閣は世界を超脱した美そのものだった。
ならばなぜ、彼は憧れを焼いたのか? 現実の金閣放火事件に材を取り、31歳の三島が自らの内面全てを託した不朽の名作。
血と炎のイメージで描く〈現象の否定とイデアの肯定〉──三島文学を貫く最大の原理がここにある。
文章の密度のオーダーがちげえや。
ーー美ということだけを思いつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。
三島由紀夫の言わずと知れた代表作です。他に「仮面の告白」や「命売ります」なんかも好きですが、
一つ紹介するとなったらやはりこの本がいいでしょう。超名作ゆえ考察やら深い洞察やらは提案するのはしのびないので、ここでは文章に関して書きます。
三島由紀夫の文章について僕が常々思っているのは、彼は日本語の正解を選び続けていると感じるということです。作家には皆それぞれ分の個性があり、その文章にもその個性が顕れます。
ですが、三島由紀夫の文章にはいい意味で個性が見いだせません。それしかないという表現を正確無比に選び続けるゲームをプレイしながら書いているような印象を受けます。
まるでパズルのピースを一つずつ選びはめていくようなある意味での"作業"を感じるのです。
そういった意味では、自己の内側にある思考を言語の手助けを経て表出化させる過程において、彼だけは思考の外側つまり言語側からのアプローチをしているのではないかと錯覚してしまいます。
それほどまでに彼の選び取る言葉の正確さとその無駄のなさには驚かされます。
もちろん内容は言わずもがななので是非読んでみて下さい。というか日本語の小説を読むのだったらやはりこれは欠かせない一作になるでしょう。
人は漫画を生きるのか。
大手出版社を早期退職した漫画編集者の塩澤。理想の漫画誌を作るため、自分が信じる漫画家たちを訪ね、執筆を依頼する。
仕事か、表現か、それとも友情か。漫画を描く者、描かぬ者、描けぬ者、東京の空の下、それぞれの人生が交差する。
穏やかな残酷と人情
ーーこの街に暮らすどなたかが雨露をしのいでくだされば良いです。
全3巻の漫画です。引用に用いたセリフは、序盤に主人公の塩澤がさしていた傘が風で飛ばされたときに発したものです。まずはこの塩澤の良さについて語らせてください。
塩澤は編集者として過去に一つの漫画雑誌を作り上げることに成功するも、売れ行きが芳しくなくつぶしてしまいます。その責任を取るという名目で出版社を退社するのですが、
本来の目的は理想の漫画誌の作成です。
これだけ聞くと野心家を想像するかもしれませんが実際の塩澤は実に謙虚で礼儀正しく、人一倍真摯に漫画と漫画家に向き合い、創作活動に対して多大なる敬意を払っている人物です。
身の回りの人に対する誠意と実直な人柄を見ているだけで自分が忘れているものを優しくそばに持ってきてくれるような気持ちになります。
個人での漫画誌の制作は困難ばかり。塩澤はその中で迷い、頼り、頼られ、救い、救われ、両義的な意味で足元を見つめながら歩いていきます。
穏やかでありながら現実を一つずつ対処する残酷さと誠実性の重要さを感じられる間違いなく名作です。
他の松本作品と比べ、明らかに現実に即しているこの漫画の存在感は異質ですが、むしろ彼の真骨頂はこの優しさと心の奥に触れる温かさだとも思えます。
どんな人も生きていれば創作活動に関わらないことはありません。自分が今創作しているそれと真摯に向き合えているでしょうか。そう問われているような気がします。
