目を覚ますと同時に、悪臭が鼻の奥を的確に刺激する。反射的に目を瞑り、またこじ開ける。部屋を見渡して思い出した。そうか、そういえば麻美の家に来ていたのか。
直後、激しい喉の渇きに気がつく。窓は締め切られており、揺蕩う湿気は目視できそうだ。
閉じられたクリーム色のカーテンの隙間から漏れる日光の直線が、比較的整えられた部屋を分断している。
壁に張られた自分と麻美との写真はちょうどその直線上に位置していて、変に存在感を放っている。そしてその白線に沿って下に視線を散歩させていく。
趣味の良い黒のナイロン生地のコート、代替可能な化粧品の集合、現実的なプラスチックの引き出し、背の低い箪笥、フローリング、エトセトラ。
汗やら何やらで濡れたベッドの不快感は、昨日の快感の代償としての役割を十二分に発揮していた。
自分と壁に挟まれる形で横になっている麻美はまだ目を覚ましていない。目を覚まさないのが不思議なほどに、彼女は汗と昨晩の彼女の体液でびしょ濡れだったが、涼しそうな顔をしている。
肩にかかるくらいの髪の毛は湿気を含んでうねっていた。初めて見る赤いパジャマが似合っていた。
これまで何度も見つめた寝顔であったが、今日はより一層綺麗で、この最悪の日曜日の始まりも幾分かマシに感じられる。
水を飲もうと体を起こし、ふと時計を見ると正午をとっくに過ぎていた。ピクニックに出かけるには遅すぎるくらいだ。
「今週の日曜日、架とピクニックしたい、かも、。」
引っ込み思案で受け身で恋愛下手な麻美がそんなことを言った。ちょっと前までは自分の感情を言葉にすることすらできなかったのにだ。
一年ほど前に母に県外の大学に行くと言った時、母はこんな気持ちだったのだろうか。巣から飛び立つ我が子を見る親鳥はどうだろうか。子ライオンの成長を見守る親ライオンも、。
いや、全然違う話をしているのだろうか。そこまで考えて自分が水を飲もうとしていたことを思い出した。
洗面台に向かい、コップに水を汲む。麻美の家はごく普通のワンルームのアパートで、こぎれいな洗面台の向かいにはキッチンがあった。
洗面台の鏡に映るキッチンには、まな板やフライパンをはじめとする洒落た調理器具がその出番を待ちながら整列している。少し視線をずらすと、ひどい顔をした自分が写る。
自分は幸せなはずなのにどうしてこんなにもひどい顔をしているのだろう、とふと考え、すぐに考えるのをやめた。
さらに視線を落とすと色違いの歯ブラシが見える。片方だけ先の毛がケバケバだからどちらが麻美のものかは一目瞭然だ。麻美は物持ちがいい。
ものを丁寧に使うし、人に対しても丁寧で誠実だ。麻美は異性と付き合うのが初めてだったが、付き合ってすぐに彼氏を昔からの親友に紹介するくらいには誠実だ。
「架を美久にも紹介したい!」
いきなりであったが、純粋にうれしかった。予定を合わせ、すぐにランチに行った。麻美の昔の話などをして盛り上がった。麻美は照れくさそうだったが同時に楽しそうで、その後もしょっちゅう三人で集まりたがった。
もちろん嬉しくはあったが、もっと二人で一緒にいたかった。
まだコップに汲んだ水を飲んでいないことに気づいた。考えすぎる癖が昔から治らないのはなぜだろうか。あろうことか、その癖を麻美にまで向けた。
「考えすぎだよ、ちゃんと好きだから大丈夫だよ。お願い、信じて。」
いつしか麻美がかけてくれた言葉だ。この言葉を信じられるだけの余裕があの時にあったらなどと考えたが、麻美のスマホの着信音が、そんなことを考えても無駄だと言わんばかりに鳴った。
ベッドに戻り、スマホに表示されている名前を見る。麻美の代わりに出て、少し喋る。カーテンの隙間から漏れる光と散らかった部屋を見て、朝の不快感がまた戻ってきた。
切る間際についたため息が相手に聞こえたかは知らない。しばらくの間ベッドに座り、涼しい顔をして横たわる麻美を見ていた。何時間もそうしていたかもしれないし、数分間のことだったかもしれない。
玄関のチャイムが鳴った。鬱陶しい。重い腰を浮かし、適当に着替える。クローゼットには白を基調とする麻美らしい服が詰まっていた。着替えの最中にもう一度麻美のスマホの着信音が鳴る。
着替えを急かされるのは好きではない。着替え終わったときに二回目のチャイムが鳴ったので、覗き穴を覗く。ドアを開け、部屋まで招く途中、洗面台の鏡にはひどい顔をした自分が写った。
昨日麻美の家に着いたときもこんな顔をしていたのだろうか。
「どうしたの、こんな遅くに。」
眠そうな目をこすりながらドアを開けた麻美は、いつものパジャマに身を包んでいた。少しだけ寝癖がついていて、そこも愛おしかった。麻美とは幸い家が近かったので、いつでも思い立ったらすぐに行ける。
でも、昨日は午前二時を回っており、さすがの麻美も驚いたようだった。部屋にはすぐにあげてくれたが、明日のピクニックを楽しみにしているようで、早く寝たがっていた。
その数分後、麻美は肩で息をしながら怯えて助けをすがるような目でこちらを見ていた。ベッドに座り込み、私を見上げている。左腕から流れている血が、麻美の純白のパジャマと白いベッドシーツを徐々に赤く染めていく。
呼吸は乱れ、何が起こっているのかわかっていない様子だった。
「ねえ美久、考えすぎだよ、ちゃんと好きだから大丈夫だよ。お願い、信じて。」
目に涙を浮かべながら必死になだめようとしてくるが、別にやめる気はなかった。昔からの一番の親友を今から手にかけようとしているにしては、私の心は余りにも冷静であった。いや、冷静というよりは、安堵に近かった。
これでよくわからない男に、架に私の麻美を取られない。その得も言われぬ快感は生涯最高の体験であった。私の恍惚の表情に麻美はさらに恐怖を感じたのだろうか。
さらに顔が強張り、まるで私が殺人犯であるかのような恐怖に満ちた目でこちらを見てくる。そんな目で私を見るなんて、心外も甚だしい。
この女はこれまで私にどれだけ世話になってきていると思っているのだろう。麻美は私がいなければ生きていけない。
昔から本当に哀れで可哀想な子だった。近所に住んでいた私たちは小さいころからよく遊んでいた。麻美は、引っ込み思案で人見知りで感情表現ができない、いわゆる「いい子」だった。
もしかしたら同情を誘っているのかもしれないと思うほど幸が薄そうで、私が世話をしてやる他無かった。保育園の時にいたずらをされて泣きついてきたのが最初だっただろうか。
それからはいつも私だ。小学校、中学校と何かあるたびに、落ち込む麻美を私が慰める。面倒くさいとは思いつつも、その時間は言いようのない優越感に浸ることができた。
当時はその感情が何なのかを理解していなかったが、とにかく頼ってほしかった。私がいないと生きていけない麻美は、本当に可愛く、愛おしかった。
しかし、別々の高校に進学してから、麻美は変わってしまった。高校で別の友達ができた。似合ってもない厚化粧を始めた。誰にも見られない体の場所の脱毛の話をし始めた。
グロテスクで気持ち悪かった。言動が薄っぺらくて麻美らしくなかった。つまらない広告が作り上げたつまらない理想を追いかけるような子じゃなかった。
麻美のような純粋な子が下品な社会に飲まれてはいけない。
高校卒業後、一緒に上京し、近くの大学に通うことになった。麻美の友達で上京している人はいない。
ようやく麻美とずっと一緒にいられると思ったが、麻美はあろうことか彼氏を作り、さらには私の予定より優先するようになってしまった。
今週の日曜日は本当だったら私と映画を見る予定だったのだ。
「ホントごめん美久。今週の日曜日、架とピクニックしたい、かも、。」
本来の麻美を取り戻さなきゃ、と思った。
麻美は、このままでは麻美のことを何も知らない男に騙されてしまう。それはあまりにも可哀想だ。
そうなる前私の手で連れ戻さなきゃいけない。本当に何から何まで手のかかる子だ。私がいなければどうなることやら。
ところが目の前の麻美は私への感謝も忘れて、怯えた目で私を見ている。恩知らずだと思ったが、そんなところも狂おしいほど可愛い。
麻美に長いこと怖い思いをさせたくなかったので、さらに逃げようとする麻美の髪を掴み、すでに麻美の血がまとわりついている包丁を背中に突き刺した。
ベッドの上でバランスをとるのが難しかったせいか、先ほどの左腕のようにはうまく沈まなかった。低くて汚い声が可憐な麻美の口から漏れる。麻美はこんな声を出さない。気持ち悪い。
無我夢中で包丁を突き立てた。快感が体を貫いた。気づけば麻美の体は赤く染まり、ベッドに静かに横たわっていた。本当に綺麗な寝顔だ。
思わず私もベッドに横たわり麻美の体を抱きしめると、体と心が奥底から温まった。これ以上ない幸福な時間だった。
直後、猛烈な眠気が私を襲い、そのまま深い眠りについた。
鏡に映るひどい顔の自分から目をそらし、部屋のドアを開けるよう促す。洗面台に水を汲んだまま飲んでいないコップがあるのが見えた。 ベッドに横たわる麻美の姿を目にした架は、数秒間目の前の光景を理解できていなかった。ようやく後ろにのけぞりながら、奇声とともにその間抜けな面を私に向けると同時に、私はフライパンを頭に振り下ろした。 痛い。鈍い衝撃が私の腕全体を襲う。運動をもう少ししっかりやっていればと考えた。麻美といつかやったテニスを不意に思い出す。ラウンドワンの隣のスーパーでたい焼きを食べただろうか。 架は床に這いつくばりながら僅かに蠢いている。そのまま背中にまたがり、何度も頭を殴打した。明日は筋肉痛だねと笑う麻美の声が脳内にこだまし、頬が緩んだ。
ライオンは、子供が病気などの理由で思ったように成長できなかったとき、親がその子供を食べてしまうことがあるという話を思い出した。他の個体に殺されるくらいならと自分の栄養にしてしまうらしい。 儚く、その上素晴らしく健気だ。廊下に敷かれた幸福を目の前に、鼻の奥を刺す不快感を噛み殺す。鏡に映る私は綺麗な顔をしていたので、洗面台のコップの水を一口飲んだ。
2026/02/17
あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
僕が初めて書いた超短編小説のようなものです。実家のベランダの風景から着想を得て書き出しました。
つじつまを合わせるという作業を読者に任せてみようと思いあえて読みにくい文章構成にしてみました。